怒りに取り組む前、わたしたちは「相手」モードで話すことが多い
・あんたは……すべきじゃない
・おまえは……すべきじゃなかったんだ
・きみが……したのがまちがいだったんだ
自分の中の怒りが浄化されると、わたしたちは「自分」モードで話すようになる
・わたしは……に怒っている
・ぼくは……にひどくいらいらしている
わたしたちは誰でも、怒りという問題を抱えています。
ですから、怒っているパートに対してコア・トランスフォーメーション・プロセスを行うことは、
非常に役立つものと思います。
もちろん、怒ることは人間である証拠です。
わたしたちがここで行うのは、怒りの感情をなくすことではなく、怒りをどう感じるか、どう表現するか、という点で、怒りをクリーンにしようというものです。
怒りがきれいでないときには、いつでも、プロセスを行う価値があります。
怒りの目的が、自分の感情および思考を表現することである場合、その怒りはクリーンです。
また、自分の怒りは正当なものだと主張したりせず、自分の感情を自分の感情として認識しているとき、その怒りはクリーンです。
しかし、わたしが他の人を変えたり、自分のやり方で人を行動させようとして、脅したり強要したりするのに怒りを使うならば、その怒りはクリーンとは言えません。
アートは小さな会社の経営者で、規則を作って、社員がそれに従うことに慣れていました。
しかし、家庭では、そうはいきませんでした。
妻のローズマリーは、彼のやり方にいつでも喜んで協力するわけではなかったからです。
たとえばアートが耕運機を持ち出すのを待っていられなくて、妻が庭を自分で掘り返し始めたりすると、彼は妻を怒鳴ってしまいます。
彼は、自分が単に感情を表現しているのではなく、妻を自分に従わせたいのだということに気づきました。
彼のパートは、「自分のやり方でさせる」ことを望んでいたのでした。アートはこのパートに取り組んで変わりました。
また、わたしが自分の怒りを、人に罪をなすりつけたり、人を責めたりするのに使うなら、それはクリーンとは言いません。
さらに、怒りが憤怒のように極度に激しい場合、たぶんそれは、現在のパートではなくて、幼いパートの体験に基づいて反応していると考えられます。
これは、そのパートに取り組むことで、「最新のもの」にできます。
怒りは、他の感情を隠すために使われていないときには、クリーンです。
ジャンは、夫が結婚記念日を忘れてしまったとき、大変傷つきましたが、傷ついたことを認めることは自分が弱いと認めることだと思いました。
彼女は大変怒りっぽくなっていたので、次の日、とてもささいなことで夫をひどく怒ってしまいました。
ジャンの場合、傷と怒りは深刻でした。
取り組むパートも一つではなく、怒っているパート、傷ついているパート、傷ついていることを非難して表に出すことを妨げているパートなど、複数ありました。
「いったいわたしは自分や人の何を批判しているのだろう」と自問してみることは、大変重要なパートを浮かびあがらせます。
わたしたちが自分や他人を批判するとき、批判の対象となっているものは、実は、このプロセスを行うことで賜物を与えてくれるパートに至る道を示しています。
また、他人を批評したり非難したりするとき、最も強く非難する対象は、実は無意識ながら、自分の中にあって自分が批判や非難しているもんが多いのです。
コア・トランスフォーメーション(コニリー・アンドレアス、タマラ・アンドレアス)